シャケンってどんな人?自己紹介をします

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現在の自分

平成生まれの20代の中学校教員。社会科で今は地理と公民を担当。

将来的には高校の日本史を担当したいと考え中。

小学生時代

小学校の頃は静かな問題児であった。

少しケンカなどをすると、休み時間に学校から飛び出して徘徊する授業エスケープをよく行っていた。そのためちょこちょこ校長室でお話する機会もあった。

とにかく屁理屈を言う少年であった。

小学校の先生が「エプロンを忘れた人は給食当番をさせません」というルールを作ると、

「じゃあ給食当番したくないから、エプロンを持っていかないでおこう」と毎日持っていかずにいた。当然怒られた。

しかしながら、父親に対しては弱く、かなりの恐怖心を持っていた。

先生が家に電話するというと、泣きながら「殺される」というレベルである。

そんな怖い父親を持っていても、忘れ物や授業態度が改善されることも何ひとつなかった。

この経験から今では「体罰で人が変わることはない」という考え方に行きついている。

(当たり前ではあるものの、一部容認している人も少なからずいるので)

中学生時代

変な反抗期に入り、自分は「日本史の神」だと思うようになり、露骨に社会科の教員に対して反抗期に入る。

社会科はほぼすべての授業を睡眠にあてるも、常に学年1位の成績を出すという変な使命感を抱いていた。実際にそれは達成できていた。

今思い返すと本当に申し訳ないことをしたと思っている。

当時の自分は毎日何かにイラついて生活していた。

社会だけはできても他のすべての教科は偏差値40にものらないくらいなのと、内申点もとても公立を受ける生徒のものでなかったため、必然的に公立は落ち、私立に進むこととなった。

高校時代

高2の頃に劇的な変化をとげる。周りもなんとなく大学の話をし始めた頃か。私は日本史をより深く勉強し、また学校の先生になんとなく憧れを持つようになった。

行きたい大学は京都にある私立の大学であった。英・国・社で受験をすることを知った。

どうしたらいいのかを英語の先生に聞きにいったところ勧められた教材は中学レベルのものだった。

勧められた時の率直な感想は「馬鹿にするな」であった。

高校2年生にもなってなぜ中学の問題集をしなければならないのか!と

実際に騙されたつもりでその教材を進めると、どうしても満点が取れないことに驚き

そこで今までの自分の勉強への姿勢を反省した。

そしてどうすればいいのかを英語、国語の先生に聞くことにし、素直に勧められた教材で勉強をしてみることにした。

それは授業態度にも大きく影響した。まず最前列に座って受けることを担任にお願いをし、実現をしてもらった。

授業中に寝て、家で勉強をすることの非効率的なことに気づき、学校できちんと受けることを心がけるようになった。

その結果。飛躍的に成績が向上した。英語の偏差値は受験期には60まで到達することとなった。

しかしながら、第一志望には落ち、第二志望に合格した。

第二志望の学校でも中学時代の自分からは想像できないレベルの大学であったので、十分に満足している。

しかしながら、もっと早く勉強していればどうなっていたか。とは今生徒たちに伝えたいことの一つである

大学時代

京都のとある大学の史学科に進むことになりました。

大学に入って最初に感動したことは話が合う。ということでした。

史学科には歴史オタク的な人がたくさんいたので、歴史の例えがすんなり伝わったことに感動しました。

「あと、京極揃ったら四職完成やん!」

みたいな笑

そんなレベルの低いことでと思う方もいるかもしれませんが

話が通じる相手の存在

は18歳の自分にとっては大きな衝撃がありました。

その1点だけでも、大学に行く価値はあると思います。

大学に行って、何を学んだかといえば正直勉強面での印象はほとんどありません。

それよりも人との出会い、考え方、行動範囲の広がりを感じました。

小、中、高まではどうしても地元からの集まりでしかありません。

高校まで行くと、偏差値で振り分けられるので、会話の差異は少なくなるとは思いますが

大学はその点でいえば、日本だけでなく、世界から多くの人が集います。

出身もバラバラの人間と知り合いになったことは自分の世界を大きく広げました。

大学時代はサークル活動とアルバイトに力を注ぐ傍らでぼんやりと卒業後の人生について考え出します。

大学入学当初

大学入学当初は学校の先生になることが目標でした。

高校までサッカーをしていたこともあり、サッカーサークルに入ろうと思いましたが

びっくりするぐらい尖っていたので

「女とチャラけたサッカーなんてできるかい!」

と思っていました。

(今は逆に女の子とサッカーしたいですけどね笑)

その結果サークルにはあまり、入らず同じ史学科の友人と過ごす時間が多かったです。

これは大学教職課程あるあるなのですが、

1年目からどんどん人が減っていく

というものです。

これに関しては僕自身かなりラッキーでした。全体で受ける講義の人数が年数を減るごとに少なくなっていきましたが、僕の周りではほとんど減ることはありませんでした。

最初は熱意を持って教職課程に臨みましたが、最後方は惰性の部分もありました。

しかし、その中でも続けてこれたのは、環境のおかげだと思っています。

ここで学んだことは

本人のやる気<環境

大学後半

僕の中で人生の転機になったのは19歳の誕生日前後でした。テーマパークでアルバイトをしていたのですが、その時に仲の良い女の子ができました。

その頃の僕はDの意志を継ぐものでしたので、女性経験もあまりなかったのです。

夜。家でメールのやり取りをしている中で

「会いたい」

と言われました。0時を超えたぐらいでしょうか。

もう風呂に入り、後は寝るだけ。家族も当然寝ている時間。

その彼女は大学の近くに一人暮らしをしていて、僕の家からは原付でいけば40分くらいのところに住んでいました。

その時の僕はある本を影響を受けていて、その本にはこう書かれてありました。

若いうちはYESかNOかの二択で迷えばとにかくYESを選べ。どんなことでも経験になる。

この考えを元に僕は夜中に原付をかっ飛ばして彼女に会いにいきました。

そこをきっかけに僕は女性との関わり方や身だしなみなどすべてに気をつけるようになります。

そして、激しく後悔をします。

大学入った時にフットサルサークルに入っておくべきであったと……

ここで学んだことは

選択に迷うぐらいの時は思い切ってアクセル全開で進んでみる

という決断の指標と決断における成功体験を勝ち取りました。

人生最大の失恋

人生の最大の失恋が訪れます。同じバイト先の女の子です。

 

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