満州事変とは何か解説。

勉強法

こんにちは現役中学校社会科教員のシャケンです。

僕の自己紹介は以下のページに書いてますので、見てください。

シャケンってどんな人?自己紹介をします
現在の自分 平成生まれの20代の中学校教員。社会科で今は地理と公民を担当。 将来的には高校の日本史を担当したいと考え中。 小学生時代 小学校の頃は静かな問題児であった。 ...

満州事変とは

1931年の柳条湖事件を発端に関東軍がわずか数か月で満州全土を支配した。

経緯

1922年から国民党の蒋介石が北伐と呼ばれる北方軍閥の討伐戦が始まった。

満州の親日軍閥の張作霖を日本は支援していたが、北伐の勢いに押された張作霖は日本と距離を取り始めた。

関東軍の河本大作大佐が首謀して、張作霖を爆殺した。(張作霖爆殺事件)

しかし、後継の張学良は反日の姿勢をとった。

その後、関東軍はさらに勢いを増して、1931年に柳条湖事件を勃発し、数か月で満州全域を支配した。

勢いそのままに関東軍は満州国を建国したものの

国際連盟から派遣されたリットン調査団により、一連の事件は日本が悪いと決定。

不本意な日本は1933年に国際連盟を自ら辞めた

内容

張作霖を爆殺した結果。反日の張学良が後継となり

中村大尉事件(中村大尉が満州をスパイ旅行中に中国軍に殺害)

万宝山事件(満州と朝鮮の国境沿いの万宝山に朝鮮人が入植し、現地の中国人ともめた事件)が勃発

→一連の中国との衝突に関東軍幹部石原莞爾板垣征四郎は早急な満州支配を画策

その結果として、柳条湖事件が勃発した。

事件の背景として

1 政党政治が恐慌に対応できず、国民の信頼は低下していた。

2 中国国内で利権回収の動きがあった

3 満鉄の利益の低下

4 ソ連への警戒

の大きく4点が理由とされている。

第二次若槻礼次郎内閣は「不拡大方針」を示したが、軍は無視

愛新覚羅溥儀を皇帝とし、満州国を建国。日満議定書を交わし、日本は満州国を建国

中国には塘沽停戦協定により、強引に満州国を承認させた。

ここまでの動きから中国は国際連盟に訴えた。

リットン調査団を派遣し、結果は黒。

国際連盟は満州から日本軍の全軍撤退を求める。

→日本全権松岡洋右は不服とし、1933年に国際連盟を脱退。

覚えるポイント

1 中国の反日感情に焦る日本軍の反応

張作霖爆殺事件、柳条湖事件

2 軍部の暴走と日本の政党政治の終わり

満州国建国、5.15事件

3 軍部暴走の根幹

日本軍の「統帥権」はすべて天皇が持っている。

内閣はあくまで天皇の補助機関

4 国際連盟を脱退する。

 

はじめ日本は恐慌であったため、どこかで打開しなくてはいけない状態

恐慌打破のために軍部も強行策にでた。

恐慌による強行

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